難題:自己開示

自己開示。

自己開示とは、文字通り自分の事について他人に共有すること。

私はこの自己開示というものに非常に苦手意識がある。

なぜ苦手なのか、それはおそらく私自身がめちゃくちゃ内向的な人間なせいだと思う 。

義務教育を受けていた頃、人間は外向的か内向的かに分けられるという話を聞いたことを薄ら思い出す。

心の向きが外側、つまり自分以外と積極的に関わる人間が外向的で、逆の内側に心が向いている場合は外界に対して消極的である。とかいう内容だった気がする。

私は積極的に交友関係を広めたいと思うことはほぼ無く、別に他人に自分を理解してもらいたいとも思っていない。典型的な内向である。

内向的な人間、少なくとも自分は他人のことを心から知りたいとも、自分のことを他人に知ってもらいたいとも微塵も思っていない。自己開示が出来ないのはここが所以かもしれない。外向的な人は自己開示をすることで他人に自分という存在を記憶として植え付けることが出来ることに悦びを感じているのかもしれないが、自己開示をしたところで私は何も嬉しくないし逆に他人に自分を知られることを不愉快だと思う。だから自己開示したがらないし他人の自己開示にさほど興味を示せない。

とは言ったものの実際にこの思考のまま人間として生きていけば確定で人として孤立し社会に取り残される。

ここでピンチに陥るかもしれない内向人間(私)はこうする。

 

外向人間のフリ

 

内向人間が淘汰されてしまうなら外向人間に仮装してなんとか生きてしのいでいくしかない!

外向人間のように、相手の話を真摯に聞き、相手に興味を持ち接する!そしてこちらも自己開示を………

 

自己開示を……

 

 

 

 

自己開示…

 

 

 

 

 

自己開示って難しくない?

 

どこからどこまでおれのこと教えればいいの?

今日食べた朝ごはん?昔の部活?好きなバンド?

そもそも自分のこと教えたくないんですけど???

 

外向人間に擬態する内向人間は例え人に興味を持つことは出来ても、他人に興味を持って貰えるような自己開示をすることが難しいという壁にぶち当たってしまった。根元が内向的だからね。

他人の話を聞いたりするのは最終的に自分でどうとでも処理ができる。聞いたことをどうしようと自分の勝手だからだ。しかし自己開示を一度してしまったら、その情報は相手の記憶に残り自分ではコントロール出来ない範疇になってしまう。

内向的人間にとってはそれが堪らなく恐ろしい。自分の情報を他人に晒し、私はこういう人間ですよということを伝える。相手の中に自分という存在のミニチュアが作られる。それがどんなに不快で恐ろしいことか。特に私が恐れているのは断片的な情報だけでパーソナリティをレッテル貼りされることだ。

「私は(詩的な歌詞やバラードが気に入っているから)UNISON SQUARE GARDENというバンドが好きだ」という自己開示をしたとする。相手は「この人はUNISON SQUARE GARDENが好きなんだ。じゃあフレデリックみたいなアップテンポみたいな曲が好きなやつなんだ!」と受け取る可能性がある。こうなってしまうと他人から見た私と私が思ってる私の像が若干ズレてしまう。あることないこと連想されて私という存在が間違った認識をされてしまう。

相手に「私」というプラモデルのちっちゃなパーツを少しだけあげて、残りは相手の持ってるパーツと組み立てに任せる。そつして完成した「私」は果たして本当に「私」なのか。恐らく小さな差異から大きな差異までおかしな点が出てくるだろう。そしてそのおかしな点をおかしな点と思わないで「君って○○だからね!」など分かったようなことを婉曲的にだったり直接的に言ってくる。

だから自己開示は嫌いだ。

相手に誤解なく完璧に自分のことを伝えた気でいても人間の認知の穴をついて何処かで認識の齟齬は出てくる。完璧に自分を理解してもらうことは不可能に近いと言える。完璧じゃない間違った自分の像を相手に持たれているということは非常にやりづらいし不快だ。ならばいっそのこと自分のことなど知らないでいてほしい。

 

自己開示が苦手だ。